元担任のブログを隠れ読み とか


高校の2、3年次の担任の先生は

国語の先生で、変わった人だった。



先生らしくなくて、

生徒としてというか、

人として扱ってくれる

数少ない人。

なかなか出来ることじゃないと思うんだよね。

(変な意味じゃなく)



その人のブログを見つけて

こっそり読む。



何書いてるんだか

さっぱりわかんないときもあって

でも、

読み返すごとに

そのときそのときの自分の心境によって

全然違って見えて

おもしろい。



っていうか、高校の先生は

良くも悪くも変な人ばっかりだった。

同じクラスの子も。



学力別に分かれるから

あんまりクラスも変わらなくて

文理合同クラスだったから

いろんな人がいて面白かったな。



いろいろな人との出会いってのは

本当に「己」を成長させてくれるもんだよね〜って

思うけど、なかなか踏み出せないね〜



まず!自分が相手に

「がばっ!」と自分を見せたとして

相手も

「がばっ!」っと来てくれるか、

ちょっとずつ来てくれるか、

自分をみせないままか、

離れていってしまうか、



そんなこと分からないけど

どの道「がばっ」って見せないと

その人なんてわからない。



あたしは割りと「がばっ」と見せて

どすどす踏み込んでいけるタイプだったんだよね。

(でも小さい頃は人見知りだったよ。ちゃんと。)



でも最近は出来なくなっちゃったんよね。

良くも悪くもそれがアタシだったのに。

恐れずいってみましょうよ!自分!






引用↓(いいのかな〜ダメかも)



仕事ばかりしていると、思考が効率の良さだけを求めて固定化してしまう感じがして不愉快だ、と思っていたけど、

思考がそんなふうに貧しくなるのは、別に仕事について考えているから、ではないのではないか、と気づいた(気がする)。

問題は、「何について」考えるか、ではなくて、「どのように」考えるか、であって、

たとえば、哲学的問題について考える、も、アートについて考える、も、仕事について考える、も、対象はなんでもよいのではないか、ということだ。





しばらく忙しくてあまり本が読めなかった反動で、週末にずいぶん本を買ってしまった。

堀江俊幸『熊の敷石』(講談社文庫)

川上弘美『夜の公園』(中公文庫)

吉村葉子『お金がなくても平気なフランス人 お金があっても不安な日本人』(講談社文庫)

吉本隆明『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ』 (だいわ文庫)

保坂和志『羽生―「最善手」を見つけ出す思考法』(知恵の森文庫)

保坂和志『小説、世界の奏でる時間』(新潮社)

スコット・バークン『アート・オブ・プロジェクトマネジメント』(オライリー・ジャパン

アービンジャー・インスティチュート『自分の小さな「箱」から脱出する方法』(大和書房)

荻原和歌酒肴道場』 (王様文庫)

など。

斜め読みで目を通しても結構刺激を受けるからそれでいい、と思っていると、けっこう忙しいなりに読書も充実する感じがする。





吉本隆明の本では、ひきこもりという状態がいかにまっとうかという話をしているけど、たしかにその通りと思う。

河合隼雄(もう死んじゃったけど)や吉本隆明みたいな「老賢人」的なおじいちゃんが「ひきこもり」擁護みたいなことを言っているのを読むのは楽しい。

世の中、ある一つの価値観が主流になると、それが当然みたいなでかい顔をするけど、そういうときは、なるべく長いスパンで物事を考えたい。ひきこもりのせいで学校に行けなくても、仕事につけなくても、貧乏になったりホームレスになったりしても、死ななければ(死んでしまうのはやめたほうがいいと思う。せっかくこの世という変なところにやってきたのだから。だから吉本隆明も言ってるけど心の病気だったらちゃんと医者に行ったほうがいい)、どうでもいいじゃないかと思う。





ひきこもりで学校に来られなくなってしまった生徒を担任したことがある。おもしろい人物だったので、家に行っていろいろと話をしたのもけっこう楽しかった。学校に来なよ、というようなことを当然言ったけど、まあ当然そんなことでは効果はなく、転学していった。この前、ばったりとその母親に会って話を聞いたら、就職もせずにコンビニのアルバイトをしているということだった。でも、まっとうに人生を歩んでいる多くの人よりも彼の方が人間としては豊かであるだろう点からすれば、何が良いことで、何が悪いことか、は、かなり難しい問題だと思う。

だいたい、不幸せであることが、悪か、だって分からないわけだし。




引用↓②




「愛」という言葉のうさんくささと、でも一方でやっぱり重要かもしれないと思ってしまうのはなぜか、について考えてみる。




まず、前提となるのは、このわけのわからない「人生ゲーム」の上でゴチャゴチャとなんだかんだと動き回って、

けっきょくこの「人生ゲーム」がいったい何なのか、わからないままこの世を去っていく、ということだ。




「愛」という言葉で言おうとしていることは、この世界に対する執着だろう。

愛と憎しみ、アンビバレントな感情、とかはよくあることだから、憎しみも似たようなものかもしれない。




愛する対象は、だから、この世、だ。具体的には「モノ」の場合もあるし、「ヒト」の場合もある。

でも、人間はやっぱり人との関係が重要だから、とりあえず「愛」は人間に対する愛を意味することが多いのだろう。




で、この「人生ゲーム」は、最初に書いたように、基本的に意味なんてないわけで、

たとえば、ドラクエなんかを夢中でやっていて、ある日、突然どーでもよくなってしまったりすることがあるけど、

この「人生ゲーム」だって、同じように、ある日突然どうでもよくなることは十分あり得る。

今まで鮮やかな色彩に染められていた世界からすべての色が急になくなってしまったような感じで。




「愛」というのは、その「どーでもいい」という本質がばれてしまうのを防ぐ、唯一のとっかかり、ということだろうと思う。

だから、愛は重要。

でも、「基本的にこの世に意味なんかない」という真実を前提にしないで発せられる「愛」という言葉はうさんくさい、

ということだろうか。



引用↓③




いつもながらに社会生活はつらい。気を張って生きなければならないからだ。

気を張るのは、自分を自分以上に見せようとするからだろう。

あるいは、失敗をしたらまずいからだ。

どちらにしても関係しているのは、プライドだと思う。




プライドとは自分の価値を高く保とうとする気持ちのことだ。自分に価値がない、ということを認めるのは、つらい。

こんなふうに考えているのも「自分」だから。

それに、自分の価値を高めるという以外に、この人生における本質的な楽しみがあるだろうか、とも言える。




ありきたりな論の展開だけれど、ポイントは、自分の価値を何で決めるか、だろう。

他者の評価によるのか、自分自身の評価によるのか。

もちろん、人間は他者との関係によって成り立っているわけだから、他者による評価を完全に避けることはできない。

でも(ありきたり、かつ、つまらない結論になりそうだけど)、問題はバランスだ。

仮に、自分の価値を決定するための基準を完全に他者による評価に依存した場合、他者に振り回されるだけで、どう行動するかについての自分の判断なんてなくなってしまう。これに近い人はたくさんいる。

逆に、他者は完全に無視して自分自身だけで自分の価値を決定した場合、それは単なる狂人になってしまうだろう。




ポイントは、どういう他者による評価を自分の価値の基準とするか、である。

すなわち、自分の価値判断を作るまえに重要なのは、自分が好きな、あるいは、尊敬する、人物像をはっきりさせることだ。

そして、その人物が(実在の人物でなくてもよい。過去の人物とか、虚構の人物とかでも)、価値を認めてくれるだろうということを基準として

自らの行動を決定していくことが大切なのではないだろうか。

ロールモデル」というやつ。




と、考えていくと、やっぱり疲れる。ほんとはすべてどうでもいい、という感じで考えようと思ったのに。基本的にまじめなのかもしれない。

あるいは、自分に自信がないのだろうか。

自分の価値、なんて考えずに、その日その日をのんきに生きている。そういうものに、私はなりたい。




引用↓④



今日、生徒と話していて、その女子生徒がいい女の例として挙げた女子が、「いかにもいい女」としての外観を装っている女だったので、がっかりした。

そういうことはよくある。

第一に、そういう女は、うまくごまかしているだけで、たいていそんなに美人でもない。

第二に、そういう女は(よく知っているわけでもないのに言い切るけど)、話してもまったく面白みのない人物である。




女子生徒が何にも分かっていないだけで、男子は実際にはそんなに見た目だけに振り回されていはいない、ということだったらいいのだけれど、男子に聞いても同じように、いかにも中身のなさそうな女を例に出したりするのでうんざりする。

しかもけっこうおもしろいやつだと思っていた生徒がそんなことを言ったりすると、高校生ってばかだなと思う。




もちろん、生徒がいい女として挙げていた人物を「見た目だけ」と判断したのはぼくの勝手で、その人なりに一生懸命生きているのに、「見た目だけ」なんて判断するぼくの方が視野の狭い愚かな人間なのかもしれないし、

あるいは変人の女性が好きというぼくの好みに合わないだけ、つまりは価値観の違いにすぎないのかもしれない。

と書きつつ、いや実際にはそんなことはないと思っている。

中身のない女はちょっと見ればだいたい分かるし、世間にゆらゆらと浮かんでいるだけで意外性のかけらもない人物は、たとえきれいだとしても「見た目だけ」だ。それにどんな生き方でも一生懸命生きていればそれでいい、ということでもないだろう。




「きれいだ」という理由で男に選ばれた場合、その女の人は、たとえば年をとってきれいでなくなったら当然、その男にとって価値のないものになってしまう、というようなことを内田樹が言っていた。

それでも肉体的な美が男によって重要視されるは事実なのだから仕方がない、ともいえるけれど、だからこそ、そんなものに振り回されてはならないのではないだろうか。

実際、肉体的な美しさなんかどうでもいい、という雰囲気をたたえている女性でなければ、ぼくは美しいと思えない。




精神性なんていううさんくさいものに価値を置かず、肉体的な美しさという確かなもののために生きる方が美しい、という考え方も成り立つとは思う。

そして、そういう人物の方が、肉体に、金に、地位に価値を置いて、たくましくこの世を渡っていくのだろう。

でも僕はその種の土俗的生き方に美しさを感じることができない。

この世界に生まれて与えられた動物的・社会的条件にぴったり納まって、何の違和感もなく生きる人たちに魅力を感じることができない。

「どんな人だって、まったく違和感を感じていないわけではない、一生懸命合わせようとしているのだ」というなら、そんなふうに媚びる姿勢が気に入らない。

自分の違和感の方を大切にすればいいではないか